

オリンピック案件との出会いと、グローバルへのまなざし

「いつも海外にいる人」として、PMI日本支部のなかでも有名な野々市谷さん。「グローバルな仕事がしたい」という思いを主軸に、入社後からこれまで、自らのキャリアを切り拓いてきました。
1997年、IBM Japanに入社した野々市谷さんの配属先は、当時のメインバンクのデリバリー部門。COBOLのプログラマーとして、要件定義から設計、開発、テスト、ユーザーテストまで一通りのプロジェクトを担う部署でした。
同期の多くが長野オリンピック(1998年開催)関連の仕事に配属されるのを羨ましく思っていた正式配属前のある日、オリンピック史上初となる公式Webサイト制作チームに助っ人として駆り出されることに。幸運にも海外メンバーと机を並べる経験となり、目指していたグローバルな仕事が早くも実現しました。
その後、本配属先に戻って激務の毎日を送りながらも、やはりグローバル案件に思いを募らせていた野々市谷さんは、かつてのオリンピックチームのリーダーに引っ張ってもらう形で新設のeビジネス関連部門へ異動。若くしてPM(プロジェクトマネージャー)を任されることになります。
しかし2012年、社内IT部門が大規模に統合され、組織全体で人数削減が余儀なくされることに。上司から「あなたはPMが向いている」と言われたことも後押しとなり、PMPを取得。そしてこれが、PMI日本支部での長年にわたる活動の始まりにもなりました。

激務の中で見つけたワークライフバランスと、信念で育んできたチームの絆

若手時代は「SE定年35歳説」と言われるほど、激務が当たり前の時代でした。順風満帆に見えるキャリアの裏には、いくつもの困難と選択があります。
もっとも印象的なエピソードとして語ってくれたのが、若手時代に手がけたプロジェクトでの出来事です。サービスイン後、「設計書とコーディングが違う」と指摘を受け、大トラブルに発展しかねない事態に……。すでに深夜をまわる時間に告げられたショックで、帰りの電車でも涙が止まらなかったといいます。翌日、合意済みだったことが判明し事なきを得たものの、この出来事は野々市谷さんの心に深く刻まれました。
しかし野々市谷さんは「宝物みたいなプロジェクトでした」と振り返ります。10年後に同窓会が開かれるなど、解散しても良好な関係を保つPJチーム。当時のことが話題になるなど、チームの強い絆を感じています。その後も、過去に失敗が続いていたグローバルシステム統合プロジェクトに5回目のPMとして参画してチームを立て直すなど、逆境をくぐり抜ける経験を重ねてきました。
そしてNEC移籍後、問題を抱えていた海外プロジェクトに急遽リーダーとして呼ばれることに。統括部長就任のタイミングと重なりましたが、「現地に行かなければ本当の課題は見えない」という信念のもと、シンガポールへ。現地に足を運んだことで、未報告課題が明らかに。
「人と人として、まず関係性を作ることが大事だと思っています」と野々市谷さん。以降も、各国のITヘッドと会うことを重視し、対面での信頼関係構築を大切にしています。

次世代の女性PMを育てる、ライフワークとしてのコミュニティ活動



